葬式やお墓は誰のための物なのか

以前に「還りの人生の過ごし方」という記事を書いたことがありますが、そこでも書かせていただいた「自分の死を意識して生きる」と言うことと、少し関連した記事を今日は書かせていただこうと思います。
先日法事がありまして、そこで会いたいと思っていた人に久しぶりに会うことが出来ました。以下仮にKさんとします。そんなに遠方に住んでいるわけでもないのですが、会ったのは10ヶ月ぶり位でしょうか。法事がなければもっとずっと会わなかったと思います。
これには理由があります。実はKさんは末期のガンを患っていまして、それが分かったときに私も心配して自宅を2度ほど訪ねました。そして2度目の訪問の時にこう言われたんです。
「葬式は家族だけですることにしました。なのでそちらに連絡するのは全てが終わってからになります。それと誰にも見舞いに来て欲しくないので病院も教えませんしそちらから聞くのもやめてください。」
勿論それが本人の希望ですので、私はただ分かりましたと伝えて帰ってきたのですが、そこではたと考えてしまいました。つまり向こうが会いたいと言ってこない限りもうKさんとは二度と会えないという事です。私はたった今Kさんの自宅から出てきたばかりでしたが、この時が今生の別れになる可能性も考えて随分寂しく感じたものです。
そこで今日の記事のタイトルにもある「葬式やお墓は誰のための物なのか」という所に行き着くのですが、結論から先に書きますと「残された人の為にある」になります。
私は以前に肉親を、まさに突然失ったことがあるのですが、残されたこちら側としてはどうしても気持ちの整理が付かないんです。そういった状況ですと、例えばお葬式がなければますます気持ちの整理が付きません。まぁそんな事はわざわざここで書かなくても誰でも分かっている事かもしれませんが、死者を弔うという事よりも、残された者の気持ちの整理を付けるための儀式がお葬式だと今の私は考えています。
お墓も同じ事で、死別から時間が経って心が落ち着いてくると何かしら手を合わせる対象が欲しくなります。それは自宅の仏壇でも何でも良いのですが、お墓もそういった手を合わせる対象として残った者の為にあるものなのだと思っています。
ところで冒頭にも書きましたように「自分の死を意識して生きる」という事を日々実践していますと、死に際してわがままは言えないなと思うようになります。それは「自分だけの命ではない」もしくは「生かされている」と言ったことが家族は勿論、他人との関わりの中でも感じられるようになるからです。例えばKさんの様に自分の意思を最優先して周りに伝えてしまうという事が感情として出来なくなってきます。
これが良い事なのかどうなのか、今の私には判断つきかねますし自分が実際にKさんと同じ状況になった時にどうなのかはその時にならないと分かりません。
ただ、今はそんな風に感じて生きています。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎鶏肉のトマトソースパスタ
◎グリーンサラダ

 


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