『人間五十年、化天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか…』
有名な敦盛の一節ですが、Wikipediaを見てみると、この節の少し前に『思へばこの世は常の住み家にあらず』という一節も出てきます。
この謡を戦国武将が好んだのは、この辺りの無常観にもあるのかなと思うのですが、個人的には、『思えばこの世は…』の一節に惹かれるものがあります。
最近は、人生100年時代などと言うようにもなりましたが、もう50を過ぎればたとえ100年生きるとしても折り返しを過ぎたことになります。
私はまだ50代前半ですが、長い一生のうちの右肩上がりの時代はとうに終わり、この先は出来れば緩やかに下って行きたいと思う様になりました。
もちろんそういった感情は人それぞれですから、50を過ぎれば誰しも人生下り坂とは思いませんが、私の場合はそう感じながら最近は生きています。
と、ここまで書くとなんだか後ろ向きな印象かもしれませんが、ここで言う下り坂とは「死を念頭に前向きに生きる」という事です。
思えば我々戦後の高度成長期以降に育った世代というのは、身近に「死」を体験する事が歴史上最も少なくなった時代を生きてきた気がします。
一番の原因は病院で死ぬ人が増えたからですが、かつての三世帯同居から核家族に変わったことも大きな原因だと思います。
身近な生活の中での「死」というものを、多くの人が経験することなくひたすら経済的な価値だけを追い求めた時代を生きてきたということです。
ところで、私の父は病院に行くことを拒み自宅で亡くなりましたが、亡くなる一週間ほど前からはかなり辛そうに見えました。しかし最後まで辛いから医者に連れて行けとも言わず、一人じっとこらえてその時を待っている姿を私に見せてくれました。恐らく覚悟を決めていたんだと思います。
もちろんそんな父の姿を見て悲しさや寂しさを感じはしましたが、今となっては最後の大きな贈り物だったと思うようになりました。
私も父のように、何かしらの覚悟を持ってその時に臨みたいと思うのですが、それにはこれからの還りの人生を、しっかりと充実したモノにしていかなくてはなと思う今日この頃です。
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎ミックスフライ(とり胸肉、白身魚)
◎グリーンサラダ
◎豆腐とワカメのお吸い物