宗教心と依存心

丁度オウム真理教が世間を騒がせていた頃の日本は、一種の新興宗教ブームの様相でした。
なんだかおかしな禿げ親父が教祖と名乗って信者の頭をペチペチたたく教団があるかと思えば、全身白装束の不思議な集団が、山間地域をぞろぞろ移動生活をしていたりと、今考えてもかなり不思議な団体があった様に思います。
そんなおかしな教団でも、そこに所属している人達はもちろん真剣に信じているわけです。
信じているからこそ一般社会と価値観にずれが生じ、そしてトラブルになりマスコミの知るところとなり、ついには我々の知るところとなったわけです。
オウムにしろ頭ペチペチ教団(名前忘れました)にしろ、結果的に人の命が犠牲になっているわけで、しゃれにならない話しです。
どうしてこんな話しをしたかというと、宗教なり哲学なり、何かを信じる信じ切ると言うことと、何かに依存する事は違うという話しをしたかったからです。
そんな事、誰でも分かっていると思われるかもしれないのですが、先日亡くなった梅原猛さんの「歎異抄入門」を読んでいて、「他力」に関する記述を見たときに思うところがあったので少し書かせていただこうかと思います。

歎異抄といえば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」のフレーズで有名な親鸞の教えを記した書物ですが、
親鸞の思想、つまり専修念仏についての教えを弟子の唯円が記した物です。
念仏宗の基本的な教えは、念仏を唱えさえすれば誰でも往生出来るというのが基本だと理解されています。
非常にシンプルであるがゆえに、乱世を迎えていた当時の日本人に爆発的に受け入れられたのだと思います。
宗教に限らず、シンプルなものほど実は奥が深く優れた物が多いのも事実ですが、逆に分かった気になって上辺だけしか理解されない事もままあります。
親鸞は、自らの修行によって往生するのではなく、「他(阿弥陀如来)」の「力(はたらき)」によって誰でも往生出来ると説きました。
それには念仏を唱えなさい。信じ切って唱えなさいと教えたのですが、そこで今日のテーマ「宗教心と依存心」です。
最初に例を引いた新興宗教の場合、その信者が自分で考えることすら放棄して全ての価値観を目の前の教祖に預けてしまった。
だから正常な判断が出来なくなり、人の命さえ奪うことが出来てしまう。
オウム真理教にしてもペチペチ教団(すみません…)にしても、いわゆる高学歴の人が多かったのですが、高学歴の人というのは、常に答えが用意されている問題を解くのが上手な人です。
必ず誰かが答えを用意してくれている問題に慣れていますから、お勉強が出来る人ほど結果的に自分で考えるという行為が出来なくなってしまっています。
しかし実際の社会では必ずしも答えが用意されていませんから、こうした学歴エリートの人達も一度は壁にぶつかったり挫折を経験したりするわけです。
通常は、そこで自分なりに考えて壁を乗り越え人は成長するのですが、そんな時におかしな宗教の誘いがあるとそこに答えが用意されていると勘違いしてどっぷりとはまり込んでしまうのだと思います。
こうした人達は本来的な意味での「考える」ことが出来ませんから、自分の人格全てを預けきってしまう、要するに依存してしまいます。
依存すると、何か間違いがあったとしてもそれは自分では無く依存した先の間違いだから簡単に人のせいに出来てしまいます。
自分で責任を取らなくてもよいので楽なんです。
しかしそうした人ほど、自分が「依存」してしまっていることに気付いていません。だから、かつて自分が信じた事を今度は平気でこき下ろしたりもします。これは自分を否定していることと同じ行為なのですが気付かないんです。
そうしてまた新しい「依存先」を探すのかもしれませんが、どこかで自分なりに依存に気付くまでこれを続けるのだと思います。
イスラム原理主義の自爆テロなどにも見られるように、宗教は常にそうした「依存」の危険をはらんでいますが、こればかりは自分で気付く以外に方法がありません。誰しも陥る可能性のある依存の問題。心引き締めて暮らしていきたいと思う今日この頃です。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎鶏の唐揚げ
◎ポテトサラダ
◎えのきとワカメのすまし汁

 


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