仏教の重要な教えに「こだわるな」というのがあります。分かりやすい例で「愛」と「渇愛」というのがありますが、仏教でも他の宗教でも「愛」といえば「無償の愛」を指します。与えっぱなしで何も見返りを求めない愛の事です。一方「渇愛」は強いこだわりを持った所有であり束縛であり不安です。
演歌の歌詞に出てくる愛はたいていこっちの方ですね。つまりこの人は私の物とこだわってしまうから相手を束縛してしまうのであり、束縛すれば常になくす事への不安がつきまといます。しかしこだわりをなくせばそうした苦しみから解放されるわけです。
ただこれ、頭で分かっていても中々出来る物ではありません。出来ないから悩むわけですし、お坊さんなんかは厳しい修行をするわけです。
昔読んだ仏教の解説書に(確かひろさちやさんの本だった様な…)良寛和尚のエピソードが出てきまして、あるとき良寛和尚の庵に誰かが訪ねてきた話しです。草鞋で歩くと足が汚れるので、昔は家に上がる前に足を洗ってからあがりました。貧乏で必要最小限の物しか持たなかった良寛和尚は、何やら鍋の様なものに水をいれて客人に差し出しました。客人はありがたくその水で足を洗ったのですが、その後出された料理が足を洗った同じ鍋で供されたという話しです。この話しを例に出して仏教の「こだわり」について解説していたのですが、当時私にはこの話しを例えに出した意図がよく分かりませんでした。足を洗った鍋で料理を作るというのは、単に失礼なだけの話しではないのかと思ったのです。
今でもこの時の客人のレベルによっては怒って帰ってしまう可能性もあったなとは思いますが、良寛和尚はそのあたりを分かった上であえて同じ物で足を洗わせ料理を出したのだろうと理解しています。
そんな事をぼーっと考えていたときにふと思いついたのが今日の記事のタイトルです。
これを仏教で言うところの「こだわるな」で考えるとどうなるのか。
もしこうした状況に出くわしたとき、果たして自分ならどうするのか。
そんな事をとりとめもなく考えてしまいました。
「こだわるな」というのはつまりあらゆる物事に対して執着を捨てろという事なのでお金に執着していなければ一億円をあげるよという提案には心を動かされないはずです。その場合、僕はそんなお金なんか要らないよと言って相手の要求を断るでしょう。
これはお金に主体を置いて考えた場合です。ところが「靴底を舐めろ」の部分に重きを置いて考えるとまた違ってきます。
仏教ではあらゆる物事に対する「執着を手放せ」と言っているわけですから、当然見えない物に対する執着も手放せと言っているわけです。
これは自分の行動の元となる価値観についても関わってくる話しで、普通のプライドを持った人なら他人の靴底などたとえ大金を積まれても舐めたく有りません。ところが他人の靴底を舐めるという行為に対して何のわだかまりも持たない人であれば平気で舐めるでしょう。
これは果たして立派な行為と言えるのか。「こだわるな」という教えはこの場合どう当てはめれば良いのか。
煩悩と執着だらけの私には中々難しい課題です。
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎ベーコンとズッキーニのスパゲティ
◎グリーンサラダ