迷いながら歳を取り、迷いっぱなしで死んでゆく

この世界には、どこの国であっても必ず「宗教」と呼べるものが存在します。宗教とは言うまでもなく人智を超えた教えであり、理屈を越えたところに存在する教えです。一方「哲学」と呼ばれるものは西洋のギリシャあたりが発祥のなにやら小難しい学問と思っている方が多いのではないでしょうか。
これを平たく言うと宗教は理屈の外側にある物であり、哲学は理屈そのものと言っても良いのかもしれません。
私も社会人になるまではそういった認識だったのですが、社会人になってから以降そういう風には思わなくなりました。
もちろん哲学をしっかり学んでいる方に言わせたら哲学が理屈そのものといった事には絶対ならないのでしょうが、一般の素人にはそんなイメージです。
今日は哲学の定義について書きたいわけではないのでこれ以上そこには触れませんが、人には宗教であれ哲学であれ何かしら心の拠り所が必要なことは確かだと思います。
ところで私が学校を卒業して大阪で働き始めた頃、田舎者で末っ子の私にいきなり一人暮らしさせるのが心配だったのか、しばらく叔母の家に下宿させられていた事がありました。
この叔母というのが、非常に熱心なカトリックの信者でして、毎日早朝5時頃には起きて片道40分以上かかる教会の早朝ミサに通っていました。
叔母はこの早朝ミサに私を誘うことはありませんでしたが、毎週日曜日に開かれる神父様主催の聖書の勉強会みたいな会には誘われて参加したことがあります。
当時の私は高校を卒業したての18歳。宗教にも哲学にも全く興味はありませんでした。
ただ、教会という場所にほとんど行ったことがなく、そういった場所に対する好奇心で参加することにしました。
その時に感じた事は今でもよく覚えているのですが、それは「聖書は日本語で読むんだ」という事でした。
どういう事かと言いますと、私の実家は普通の仏教の家でしたので、毎年お盆などにはお坊さんが家まで来られてお経をあげて下さいます。
その時は、子供であっても仏壇の前に座らされて一緒にお経を聞かされたのですが、お経というのはほとんど何を言っているのか理解出来ません。
ところがカトリックの神父様が読む聖書の内容は、日本語なので心にすっと入ってきます。
それで当時の私は素朴に「キリストってなんかいいこと言ってるな」と思いました。
個人的に初めて宗教というものの「教え」について興味を持った瞬間でした。
残念ながらそれっきり教会に足を運ぶことはなかったんですが、哲学なども含めた「考え方」や「判断の基準」について心に留めるようになりました。
それから随分時間が経って後、私は自営業者になりました。以来数十年、何かしら大きな判断や決断が必要な時に相談出来る「上司」や「同僚」は私の場合はいませんでした。そのたびに痛感したのが、自分には「確固たる価値観の基準がない」という事です。
自分なりの価値観を築きあげる基礎になるのが、宗教だったり哲学だったりするんだと思いますが、元々勉強が好きなタイプでもなく、そういった世界と無縁で歳を取ってしまいました。
それを自覚してからは興味の赴くままに聖書だったり仏教関連の本だったり、あるいはスピリチュアル関連の本など乱読しました。
今ではすっかり心の平安を手に入れて…と書きたいところですが、どんなありがたい本を読んでも迷える子羊は子羊のままですね。
いつも心ぐらぐら迷いっぱなしの毎日です。ただ、最近はそれもよしとして受け入れられるようにはなってきました。
つまりそれが、歳を取るという事なのでしょうか。多分このまま迷いながら死んでゆくんだろうなと思う今日この頃です。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎鮭の西京漬け
◎鶏肉とジャガイモの煮物
◎小松菜と薄揚げの和え物
◎ワカメスープ

 


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1 thought on “迷いながら歳を取り、迷いっぱなしで死んでゆく”

  1. いつも楽しく拝見させていただいてます(^_^)
    私も同様に歳とともに悩んだり迷ったりすることが減ってはきましたが、いつまで経っても迷える「古子羊」です、笑

    若い頃は、『その気』になれば何でも出来る。
    悩み多きことは即ち可能性の大きさ・広さでもある訳ですから、若い方々には積極的に悩み抜いて欲しいです。

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