エリート達が作る不寛容社会その1

自己紹介でも少し触れていますが、私は大学を卒業して会社に就職してといったいわゆる普通の人生を歩んで来ませんでした。まず最初の社会人のスタートからして挫折の中での始まりでした。当時18歳だった私は、ただただ音楽が大好きで、その情熱さえ有れば世の中渡って行けると本気で信じていました。
その情熱が通じたのか、大阪にある某放送局の音楽番組専門の制作スタッフとしてスタートを切ることは出来ました。しかしここでいきなりの挫折です。
周りの大人達は私以外全ての人が高学歴な上に音楽に関する知識も豊富。高校を出たての私とは住む世界が違う人達ばかりでした。
それでもせっかく好きな道で得た職をそう簡単に諦める訳にはいきません。自分のレベルの低さに気付かされてからはそれこそ必死に今までの分を取り返そうと頑張りました。
その甲斐もあってか、恐らく一年程経った頃には何とかスタッフの一人として認めていただける様にはなりました。
ちなみに当時の音楽業界の制作現場というのは職人的な古い徒弟制度が色濃く残っていまして、認めてもらうまでは名前をよんでもらえません。
大抵は『おい』とかよくて『ボン』です。
そうして何とか名前で呼ばれるようになると、ようやく仲間として認めていただいた事になります。私の場合ははっきりいつから名前で呼ばれ始めたかは覚えていないのですが、恐らく最低でも半年はボン扱いだったと思うので一年ほどはかかったのかなと思っています。
そんなレベルでしたから、当時は手痛い失敗も随分しました。
一番ひどかったのは、忘年会の帰りにお酒を飲んだ状態で原付を運転してしまいしっかり警察のやっかいに。
当時の私は19歳。未成年な上に飲酒運転ですから、当然その場で逮捕されまして留置場で一晩過ごしました。
しかも間の悪いことに逮捕された翌日は絶対に休めない公開録音番組の収録がある日でした。
翌朝警察の取り調べが終わると、とにかく早く仕事に行かせてくれと頼んだのですが、未成年者は身元引受人がいないと釈放出来ないと言われてしまいました。
そんな事を言われても田舎から一人で出てきている私には大阪にそんな事を頼める人はいません。
かといって田舎の両親に頼めば大阪に出てくるだけで半日ほどかかります。仕事はあきらめなくてはなりません。
困ったあげくに、同じ制作部で働いていたフリーのスタッフさんに恥を忍んで電話をしました。
それで何とか身元を引き受けていただく事が出来ダッシュで現場に向かいましたが、当然遅刻です。
遅刻の理由も現場の皆さんは知っていたのでもう穴があったら入りたいとはこの事かと思いました。
ただ、これだけの事をやらかしても、当時は大声で怒鳴られながら頭を二三発どつかれただけであとは何もありませんでした。
当時の若者に対する大人達の態度は概ねこんな感じだったと思います。
同じ事を、もし今の若者がやらかしてしまったらどうでしょう。恐らく解雇されるのではないでしょうか。
私は最近言われるところの不寛容社会が出現してしまった原因のひとつに、エリート層のレベル低下があると思っているのですが、
長くなりそうなので、その理由については次回の記事にてお話ししたいと思います。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎とり胸肉とアジのフライ
◎春キャベツとツナのサラダ
◎大根と豚バラ肉の煮物

 


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