どうせ死ぬならガンがいい

私の両親は二人ともガンで亡くなったのですが、実は姉も既にガンで他界しています。60歳でした。
更には自分も40代前半の頃に、大腸に3センチを超えるポリープが出来ているのが見つかりまして、初診の医者には8割方悪性だと思うから覚悟する様に言われたこともあります。
結果的には前がん状態という診断で事なきを得たわけですが、つまり自分にとってガンで死ぬと言うことはとても身近な出来事になりました。
こうした経験を通じて、私はもし自分が悪性の進行ガンになったとしても一切治療はせずにそのまま死を受け入れて残りの時間を過ごすことを決めています。
もちろん、実際にその場になればまた違った気持ちになるのかもしれませんが、少なくとも今はそう思っています。
そう決意するにいたった理由は、母と父のガンに対する全く正反対の対応を間近で見てしまったことが一番の理由です。
母は現代医療のガンに対する三大療法を全て受け入れ壮絶にガンと闘って死にました。
一方父はそんな母の姿を見ていたこともあり、一切の治療を拒否して最後まで入院もせずに自宅で亡くなりました。
当時私はそんな父を介護するために単身で実家に戻り二人暮らしをしながら父を見送ったのですが、亡くなる前の夜も、好きなアルコールを少しだけ口にしていましたし、当然体は辛かったと思いますが、私の手をさほど煩わせることもなく、いわば淡々と旅立っていきました。
一方母は薬のせいで、最後はベッドから動くことも出来ず、意思の疎通も叶わず、ただ医療によって生かされている状態をしばらく続けた後に、まさに力尽きて亡くなりました。
この二つのケースを経験した私は、現代医療のガンに対する治療に疑問を持つようになりました。
勿論、若くて助かる見込みのある方に対しては積極的に治療することは選択肢の一つだと思いますが、高齢者のガンに対しては少し別の考え方があっても良いと思うようになりました。
高齢者と書きましたが、それを自分に置き換えたときに、自分なりの最低限果たすべき社会的役割を終えた状態が自分にとっての高齢に達した状態と考えています。
私の場合はまだギリギリ50代ですが、そうした理由で既に自分は高齢者の状態にあると認識しています。
ですのでもし今自分の体にガンが見つかった場合には、全て受け入れてそのまま死ぬ準備に入らせてもうらおうと考えています。
こんな風に書くとなんだか人生を諦めた無気力な人みたいですが、勿論毎日やりたいことは沢山ありますし、なすべき仕事もまだまだあると思っています。
ただ、人の寿命と言うのは個人的な希望とは別に「神」の様な存在が既に決めているのだと考えていて、その時間の使い方のみ我々人間に自由に任されているのだと思うんです。
そうであるなら、病を得たときにその病とどう向き合うかは、人生に与えられた時間をどう使うかという事にもなり、至って個人的な判断になります。
ガンと壮絶に闘う経験をするも良し、ガンを受け入れて徐々に死に向かう体を味わうも良し。ガンという病気は治療さえしなければ、結構長く普通の生活を送ることが出来ます。
動ける間に、自分の人生の後始末を付ける事も出来るわけです。
そんなわけで、私は今「どうせ死ぬならガンがいい」と思っているのですが、そんな事を考えるやつに限って別の病気になってうろたえるのかもしれませんね。

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さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎モダン焼き
◎ホタルイカ
◎芋焼酎
 
 


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