「欲、怒り、無知は毒である」仏陀

「欲、怒り、無知は毒である」仏陀
私は熱心な仏教徒でもなんでもありませんが、普通の日本人同様、生まれたときから家には仏壇があり、誰かが死ねばお坊さんが活躍する環境で生きてきました。夏にはお盆があり盆踊りも楽しみました。秋にはお彼岸があり墓参りも普通にしてきました。勿論お正月には神社に初詣に行きます。本来宗教という物はそうした日常の生活に深く根ざしているものだとは思うのですが、歳を取って改めて考えてみると、やはり日本の宗教感は特殊だと思います。
どう特殊かといいますと、特徴的なことは強制的な「感情」を押しつけられる事がありません。キリスト教徒の人であっても盆踊りに参加することをとがめる感情は無いのではと思います。こういう事は日本で暮らしていると普通に感じますが、例えばベトナム戦争の終盤に北ベトナムの難民をアメリカが多数受け入れました。当然難民キャンプが出来るわけですが、そこにアメリカのプロテスタント系のキリスト教の牧師が多数押しかけ、それこそ宗教にすがるしかないような状況の難民たちに対して、多くは仏教徒であったベトナム人を半ば強制的にプロテスタントに改宗させていったという話しを何かの本で呼んだことがあります。
これは日本人にはなかなか理解できな状況ですが、欧米のキリスト教社会ではごく当たり前の感情のようです。つまり「異教徒」は難民であっても本音では受け入れたくないと言うことなんだそうです。キリストを信じれば社会の一員として受け入れるが、仏教徒のままだとそれは難しいと言うことを事実として表しています。その感情は一般的な日本人にはないですし、そもそも多くの日本人には「異教徒」という感情がいまひとつぴんときません。欧米人のように、異教徒だから全く受け入れることが出来ないという感情は日本人には理解出来にくく、異教徒であっても同じ地域の住人であればそれなりに一緒に暮らす知恵を持っていると思います。
そんな事を書けば、日本はそもそも国教と呼べる宗教が無いからだという反論が聞こえてきそうですが、国教は神道と仏教のそれぞれが歴史的には国策として取り入れられているので、その二つが国教と呼べると思います。ただ、欧米と違うのは何か別のものを受け入れる際に、以前そこにあったものを排除すること無く受け入れてしまうことです。日本に仏教が伝えられた時に、すでに日本には神道のようなものがあったわけですが、それを排除すること無く仏教も受け入れ、同じ神社やお寺で両方をお祀りするのがあたりまえでした。明治の廃仏毀釈で少し分かれた感がありますが、未だに古いお寺などにはお稲荷さんや天神さんの祠があったりします。これは欧米ではありえない事ですから、やはり日本人は特殊な宗教観を持った民族と言えると思います。

と、ここまで書いて今日のタイトルの事を思い出しました。今日はお釈迦様の「欲、怒り、無知は毒である」という言葉について書くつもりでした。
欲と怒りが毒だというのはお釈迦様に言われなくても分かりやすい話ですが、ここで言う「無知」については中々わかりにくい部分があり、考えてみました。
無知という言葉を仏教風に言い換えると無明になりますが、無明とは知恵のない事を表していて、つまり普段の体験としての暮らしの中で心を育てると言う事がなければ、いくら肩書きとしての学歴があってもそれは本来的には無知(無明)の状態ということです。
その事を、最近のスポーツ界のごたごたや霞ヶ関のだめっぷりを見てあらためて思ったので、こんな記事をかかせていただきました。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎ソース焼きそば
◎なめ茸のみぞれ和え
 

 


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