無知が招く不安と哲学的な価値観の大切さ

最近のコロナ騒動を見ていて思うのですが、やはり人間にとって「分からない」と言う状況と「恐れ」の感情はつくづくストレスなんだなと思います。
状況が「分からない」ことが心の内に大きな「恐れ」を呼び起こし、結果的にウイルスすらも招き入れてしまうのではないか…。
仏教で言うところの「三毒」貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)すべてがこの「分からない」という部分から発生しているとコロナ騒動が教えてくれている気がします。
「分からない」から必要以上にむさぼってしまう。これが「貪(どん)」
買いだめに走る心理などまさにそうです。
「分からない」から明日の生活におびえ政府や社会に対して腹を立てる。これが「瞋(じん)」
怒りの感情からポジティブな状況はなかなか生まれません。
そして文字通り「分からない」を意味する「痴(ち)」
私は以前経営していた会社で、非常に短い期間で立て続けに大きな得意先を失ったことがあります。
それぞれ状況は違うのですが、ある得意先は業績が悪化したために外注をやめることに。
ある得意先は会社毎大手の別の会社に買収されてしまい仕事が出なくなってしまった。
またある得意先は仕事は出るのですが突然支払いを遅らせるようになり以前の様に仕事を受けることが出来なくなったなど、当時はもう自分のビジネスに起こっている事態を認めたくありませんでした。
しかし現実には、つい先月まであった売上が突然ゼロになっている…。
今回のコロナ騒動を見るに付け、かつて私が体験した様な状況に陥っている中小零細の経営者が多くいるんだろうなと思います。
そんな状況の時、私の場合心は常に「不安」「恐怖」に占領されていました。
不安や恐怖から生まれてくるアイデアは更に不安と恐怖を招き寄せます。
つまりやる事なす事うまく行かなくなってきます。そうして更に不安が大きくなり…と行った具合に人は泥沼にはまっていきます。
そうなると、もうあとはとことん泥沼の底にたどり着くまで沈み続けるだけです。
沈んでもう一度浮かび上がれれば良いですが、中には浮かび上がれない人も出てきます。
幸い私は何とか水面に顔を出すことが出来ましたが、沈んでから浮かび上がる過程でしみじみ思った事が今日の記事のタイトルです。
現在どんな状況であれ、未来に一筋でも光があれば人は頑張れます。しかし今回のコロナの様に全くどうなるか分からない状況が長く続けば人の心は病んでしまいます。
そんな状況になった時に、なにかしら心の中にしっかりとした心棒の様な物があれば…。
それは宗教的な教えでもいいですし自分なりの哲学でもかまいません。
心の中にそんな拠り所があれば、一見最悪と思えるその状況すら客観的に捉えることが可能です。
よく止まない雨はないとか言いますが、明日晴れると分からなければその雨は止まない雨と同じです。
だったらいさぎよく濡れてやろうと思える心を作ってくれるのが宗教的な教えだったり哲学的な価値観ではないかと思うんです。

「宗教・スピリチュアル」

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎ソーセージと新ジャガのクリームシチュー
◎アスパラとトマトのサラダ
 
 
 


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