私は今年の夏に長年連れ添った妻の元を離れて1人で暮らすようになりました。
別に愛人が出来たわけでもありませんし、妻に対して愛情が全く無くなってしまった訳でもありません。
離れた理由についてはここでは書きませんが、離れる際に一番考えたことは家族とは一体何なんだろうということでした。
私には子供が3人いますが、もうそれぞれ成人していて庇護者としての親を必要としません。全員親とは離れて暮らしていてそれぞれにしっかり生活しています。
そんな中、妻と私はお互い生活の時間帯が違うため、いつしか同じ家に住んでいてもほとんどすれ違いの暮らしをしていることに気づきました。
このまま二人同じ屋根の下に暮らす意味があるのだろうかと考えるようになったのは当然の流れだったかもしれません。
一方私は若くして結婚して子供も出来たため、生活の中心には常に家族の存在がありました。
何かしらの判断や決断が必要な時には、家族の存在抜きに答えを出す事はありえないのが今までの人生でした。
しかし、子供達が巣立ち妻と二人になった今、もうその必要がないことに気付いてしまったんです。
さらに私の場合、仕事の面でも色々曲がり角というか節目を迎えた時期でもありました。
自営の仕事を自宅で細々続けていましたが、そんな中途半端な状態をいつまでも続ける事に不安も感じていました。
かつての私なら家族の事を考えて、自分が家族と離れてしまえば家の事など色々不便をかけるという思いが真っ先に浮かんだと思います。
しかし今なら、「インフラとしての自宅」を共有している妻しかいません。
まあ、そんなこんなで自宅を出たわけですが、一人になってしみじみ感じることは、家族ってなんだろうという事です。
子供達とは離れて暮らしていますから、肉親である事に変わりはなくとも一緒に暮らす家族ではありません。
妻とも一緒に暮らしていれば家族と言えたのかもしれませんが、もうお互い一人での暮らしになってしまいました。
私が自宅を出て以降、妻の方から連絡を寄越すことはありません。
恐らくこのまま離婚の流れになるんだろうと思います。
30年以上も共に暮らし家族という関係を結んできた相手であっても、
夫婦という関係は他人からスタートしていますので、いつでも元の他人に戻すことが出来るのだなあとしみじみ思っています。
もちろん、全く寂しくないかと問われれば一抹の寂しさは感じます。
でもそれが自分の人生なのだなと納得しています。まさに諸行無常です。
毎晩一人でお酒を飲みながら、心に浮かぶのはお釈迦様の説かれた「自灯明法灯明」のお話しです…。
釈迦亡き後の世界を悲観する弟子達に「自らを拠り所として生きよ」と説かれたこの逸話がなぜか心に浮かぶ今日この頃です。
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎エビとアボカドのスパゲティ
◎ブロッコリーのサラダ
「生まれてくる時も一人なんだから…」なんて良く聞きますよね。
夫婦は所詮は他人…、なんですよね。
私、今年で単身赴任生活が10年目に突入しました。
明日は我が身かな、と最後まで読ませて頂きました。