人生というのは結局のところその人のレベルに合わせて退屈しないように出来ているのだと思います。昔私が誰もが名前くらいは知っている会社で働いていた頃、そこで正社員として働いている人達はその会社を辞めない限りは少なくとも経済的な事で悩むことはない様に見えました。
私はその会社でアルバイトの様な立場で働いていたのですが、正社員の優雅な生活を毎日目の当たりにしていました。当時の私は10代の後半から20歳そこそこの年齢でしたのでとにかくお金がありませんでしたが、お金に不自由しない正社員の人達がお酒の席などで色々愚痴をこぼすのを不思議な思いで聞いていました。
あれから30年以上の年月が流れた今、当時の正社員さん達の愚痴が少しは理解出来ます。人生というのは結局お金や地位などの物理的なモノではなく、心の中の平安をいかにして築くかという事に尽きると思うようになりました。
自らの心の内を安らかな波動で満たすことが出来れば、人間誰しも喧嘩をしなくなりますし、社会の諍いもなくなって行くでしょう。
その為のツールとしての「何か」を、その人ひとりひとりの年齢やレベルで違うモノを必要としている…。
それがある人はお金であったり、ある人は恋人であったりするのかもしれません。
しかしそのツールとしての「何か」がお金や女性などの「モノ」である間は、結局のところ、せっかく得た「モノ」をいつか失うのではないかという恐怖感から逃れることは出来ません。その結果、もっと欲しいもっと欲しいとなり、いつまで経っても心の内に平安は訪れないという結果になります。
仏教ではこうした欲望を手放す事が悟りを開く道であると繰り返し教えていますが、その苦しみを手放せないがゆえの「輪廻」であると仏教は教えます。
全ての執着を手放すまでは何度でもこの世に肉体を持って生まれ変わる。それこそが苦しみであり、それが「輪廻」なのだと。
確かに言える事は、「求める」ことをいつまで続けてみても、結局最後は苦しみしか招かないという事です。
だったらそんな欲望は一日も早く手放して、ただ「与える」事を考えれば良いのではないか…。
与えて与えて与え尽くす。それが出来るレベルに達した人達だけがこの地球という星での学びを終え、輪廻の輪から抜け出すことが出来る。例えばマザー・テレサの様に。
そう納得しながらも、結局毎日美味い料理を求め彷徨い更には酒に酔い愚痴をこぼす…。
そんな困ったおじさんのまま死んで行くのだと覚悟している今日この頃です。
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎かれいの煮付け
◎ほうれん草のお浸し
◎枝豆