宗教とあきらめと悟り

日本は無宗教国家だなどと時々言われますが、おおざっぱに言えばゆるい仏教国と言っても良いのではないでしょうか。
私の実家も日蓮宗のお寺の檀家に入っていましたから、お盆だとかお彼岸だとか節目毎にお寺のお世話になっていました。
だからと言って、例えばイスラム教徒の方々の様に毎日お祈りするわけでもありませんし、キリスト教の信者の方のように教会に通うわけでもありません。
これは日本の仏教が檀家制度に守られてそこそこ安定して食べていけるので、宗教活動にあまり熱心ではないせいもあるかもしれません。
そんな環境ですから、興味がある人は自分で教えを乞うたり勉強するのでどんどん詳しくなり、知らない人は全く何も知らないという事になります。
私はというと、自営業を始めた頃から何かしら心のよりどころがほしくなり色々な本を読みあさるようになったのですが、そうした本の中に仏教関係の本もありましたので、ちょっとだけ仏教にも興味を持って生きてきました。

ところで仏教は他のメジャー宗教に比べると、悟りを目指すという部分でその教えは特徴的です。最も有名な般若心経などをとってみてもその内容は悟りそのものと言ってもよい内容が短く簡潔に凝縮されています。これが例えばキリスト教の聖書などですと仏教の経典に比べるとその内容はぐっと具体的な色合いが濃くなります。一方仏教の経典は中々に難解で読み解き方も人それぞれの解釈があるような気がします。
ただ、やはり終始一貫しているのは悟りについて教えているという事ではないでしょうか。
人間誰しも、なにかしら悩みを抱えて生きているものですが、その悩みが深ければ深いほど、心は悟りを欲するようになります。
悟ってさえしまえばこの悩みから解放されると思うからです。しかし我々衆生にそう簡単に悟りなど訪れるはずもありません。
それでも日々考え、悩み、そうして暮らす内にあるときふっと苦しみの根本に気付くことがあります。
最近、その気付きの感覚と「あきらめ(諦め)」の感覚が近いのではないかと感じるんです。
諦めといいましても、「やーめた」といった投げやりなあきらめではなく、明らしめるといいますかつまびらかにするといいますかそういった感じの諦めと、
悩みに悩んだ後は、もうその問題を手放して積極的に諦めてみると言った意味合いの「あきらめる」です。
悩み事というのは、自分でどうにかしようともがいても常に心の内に張り付いて離れてくれません。
しかしその張り付いた悩み事を嫌なものとせず積極的に味わう事が出来れば、有るときふっと剥がれて落ちて無くなっていく。
腑に落ちるというか、心がもう充分だとその悩み事を手放す瞬間が来る。
最近、そういった事の最大のものが悟りなのではないかと思うのです。

さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。

◎鶏肉と白菜のみぞれ鍋

 

 

 


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