人は誰でも必ず生きていく中で悩み事ややっかい事に突き当たります。
その度に誰しもが悩み苦しみ、場合によっては自らの命を絶つことさえあります。
一方で、外から見ている限りまさに順風満帆で悩み事のかけらも感じられない人も確かに存在します。
しかしそんな人でも、必ず何かしら悩み事を抱えて生きているのが人間です。
私は以前から、どうして人は生きていく中で、必ず大きな試練と呼べる出来事に突き当たるか。
どうしてまっとうに生きている人にさえも、その試練はやってくるのか不思議に思っていました。
更に言えば、同じ人にばかりもう言葉もないほど何度も何度も試練が訪れるのさえ、我々は見ることがあります。
実は先日、私の知人が悪質な犯罪に巻き込まれてしまいました。
知人は被害を被った方なんですが、被害者は知人一人だけではなかったので、当然被害者全員で警察に被害届を出しに行かれました。
しかし所轄の警察署が忙しさにかまけて被害届の受理に熱心では無く、木で鼻を括ったような対応だったようで、非常に憤慨されていました。
聞けばこの知人は、いわゆる犯罪に巻き込まれるのは今回がはじめではないらしく、もう何度も事件に巻き込まれていると聞きました。
普通の人なら、犯罪に巻き込まれることなど一生に一度あるかどうかだと思います。
なのにこの知人はもう何度も何度も事件に遭遇してしまう…。
この事をどう考えれば良いのか。人生に感じる不公平感をどう心と折り合いを付ければ良いのか。
そういった、人が人として生きる上での絶望感が宗教を生み出す原動力になったのだろうと思います。
ところでこれは私個人の考えといいますか、経験上の実感なのですが、
人にはそれぞれ持って生まれた「課題」のようなものがあり、その課題をクリアするまでは繰り返し同じ課題に突き当たると思っています。しかも悪いことに、その試練が自分にとっての「課題」と気付くことが出来ずに逃げてしまうと、
今度は更にやっかいな出来事として再び目の前に「課題」を突きつけられることになるのではないかと思っています。
だとすれば、常に目の前の困難に対しては目をそらさず、その時の自分の精一杯で対処してみることが、やはり大切な事ではないかと…。
だけど、どうしても無理なときには積極的に逃げるのもありかなと……。
今日はなんだかとりとめのない内容になってしまいました。
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎ボイルドソーセージ
◎粉ふきいもとボイルキャベツ
◎枝豆