最近の世相と戦前戦中の世相が実は似ているのではないかという記事を時々目にするようになりました。
私も同じ様な空気を感じています。勿論戦前戦中が実際にどんな風だったかは体験していないので想像するしかないのですが、
国民の多くが窮屈な空気を感じながらもそれを仕方ないと受け入れてしまっている感じはします。
平時にはさんざん戦時下の報道を批判していたマスコミも今では戦時下と同じく大本営発表のみを垂れ流しています。
やはり大手のマスコミはダメですね。昔も今も肝心なときほど長いものに巻かれる体質のようです。
記事のタイトルに使った「欲しがりません勝つまでは」は、言うまでも無く戦時中に国が使ったスローガンです。
今の「ステイホーム」にも私はこれと同じ匂いを感じてしまいます。
まあ愚痴はこの辺にして、こんな時こそ自分の胸の内を内省してみるのも良いのではないでしょうか。
どうせどこに出かけても店は閉まっていますしキャンプやバーベキューなどに出かけよう物ならステイホーム原理主義者の血祭りに上げられてしまいます。
自分の中深くに入り込む方法というと瞑想が真っ先に思い当たりますが、
これもある程度の訓練や練習が必要ですので今日やってすぐに心の内が垣間見えると言うことにもなりません。
私がおすすめするのは自分が無心になって打ち込める何かに没頭する事です。
走るのが好きな人なら走れば良いですし、本が好きな方なら本を読むのでも良いと思います。
楽器が出来る方なら楽器なども良いですね。そうしてひとしきり没頭した後に、大きく深呼吸をしてほんの5分程度目を閉じる。
誰でもが簡単にできる瞑想方法だと思います。
今日は最後にいつもの「日月神事」から引用して締めたいと思います。
(以下抜粋)「碧玉の巻・第六帖」
禍(わざわい)というものは無いのであるぞ、光を忘れ、光に背くから、嫌なことが起こるのぢゃ、影がさすのぢゃ、禍とか悲しみとかいう暗いものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。中心は見えんから、わからんから、外のカスばかり見ているからつまらんことで、つまらんことが起こってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現れるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。この世の大泥棒を高山(たかやま)ぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。
(引用ここまで)
さてさて、何はともあれ美味しいご飯があればそれで幸せ。すてきな一日に乾杯。
◎鶏手羽元のグリル
◎トマトサラダ
◎ワカメスープ